あしあとをよむ

植物、物語、音楽あたりが好きです。だらだらと更新中。

小講義Bー① 考えること。

きつねさんこと加登鉄平さんの連続講義小講義B

https://c-o-l.jimdo.com/

3回目の受講でやっとこの講義の醍醐味がわかりはじめた気がする。きつねさんの講義はどれもかなり面白いのだが、Bだけは受け付けなかったのだ。

それはこの重過ぎるテーマ故、だったのだろうか。仏教について。

今回は宗教について、というより異化の視点で考え続けること、考え抜くことについてわずかだが考察が得られた気がする。

私は母の実家が神社、近所の親戚が真言宗の大きな寺でそこの娘達と姉妹のように育ったので幼い頃から宗教が常に身近にある環境だった。しかも私は仏教系の幼稚園に通っていたのだが、敏感な弟はそこがどうしても嫌だとキリスト教系の幼稚園に通っていたので、行事のたびに教会に一緒に行ったり今思うと日本人的と言えば日本人的な、カオスと言えばまさにカオスな幼少期だった。なので講義1回目は自分がうっすらといいかなと思っていたものに対して衝撃の展開だったので、ショックが大きかったのだ。2回目はさらに詳しく入ってきてもっと嫌悪感があった。しかも身近にあったせいで宗教の裏事情などもぼんやりと身体に記憶されていて、きっとこれは本当なのだろう…あぁ、でも絶対に信じたくないという葛藤で自家中毒を起こしていた。実は3回目も憂鬱だった。他の話が聴きたい…とさえ思っていた。

しかし、今回は違った。とても面白く聴くことができてそれに自分がびっくりした。もちろん講義の進め方がより洗練されたというのもあると思う。問題は別のところにあったのだ。

「名誉殺人ー現代インドにおける女性への暴力」を大きな軸に本当の意味で考えるということ、ということを考えた。

恐怖という言葉が1つの鍵な気がした。

「恐怖」というのは生き延びる為の根源的な感情であると思う。故に現代社会ではこの感情をベースに様々なマーケティング(もちろんオブラートに包まれている)が行われておりそれは今までの世界では成功をおさめていたと思う。

恐怖で思い浮かぶのは「アポカリプト」という映画だ。マヤ文明の衰退を描いた映画だが文明自体よりも全編、生贄になった主人公の逃走劇となっている。残酷なシーンも多くR指定されているのだが私にとって大切な映画だ。なにより心に残ったこの映画のメッセージは恐怖を自分で創造することによって恐怖に飲み込まれてしまうということ。
いくら正しい美しい魂をもっていたとしても、それを想像することによってありもしない恐怖をさらに自分で創造してそれにがっぷりと飲み込まれてしまう。

敵ではなく正に己自身に負ける。古代の話だが現代の私たちのこころにもしつこく根付くもの。主人公はそれに打ち勝ち、想像するのをやめる(というか考える暇もないくらいひどい状況が起き続ける)と、

森のフォースが彼に味方し始める。まるで奇跡や神話のように。

映画をみた当時、私は本当にひどい恐怖に支配されていた。味方はだれもいないし自分さえ信じられないと思っていた。フラフラと今はなき歌舞伎町の映画館に吸い寄せられるように入ったのだ。観終わった後、じわじわと安堵と勇気に近い感情が体から湧き上がってくる感じがした。

そして前に進むことができた。

現代インドにおける名誉殺人は一族から(輪から)外れる恐怖によって行われる。そこには思考は存在しない。またサティー(寡婦殉死)という行為もあり女性も自ら身内の男性の為に犠牲になることを厭わない。

名誉殺人は一度テレビで見たことがある。しかしその時はそれを非常に特殊な出来事(びっくりニュースとかなんとか)として取り上げておりまさか年間5千人死んでいると言う事実があるとは想像もしなかった。なぜこれを一刻も早く世界中のメディアが取り上げないのか。講師は文化侵害にあたるからだと思う、と仰っていた。人種の歴史。食人族と同じ。それが文化という美しいヴェールで覆い隠されている。

なんと世界は謎に満ちた場所だろう。

しかし日本も数十年前まで例えば祖父の時代には恐ろしい蛮行が繰り返されていたのだから、日本とて例外ではない。またいつ逆戻りするかわからない。世界は思った以上にやわらかく…よくも悪くも変化は一瞬な気がするのだ。

集団心理というものは強烈でかなり意識的に考えるということをしないとすぐにそこにのみ込まれてしまう。温かい泥の中にのみこまれるのは気持ちがいい、目は曇るが安心感の中に漂える。

環境の影響から体に染み付いた感覚を越えて意識的に考える、考え続けるということ、そして考え抜くこと。それは知識を集めることや教養を身につけることとは違う。それは犠牲になる女性やサティーをする女性の殆どが世界水準の一般教育を受けている事からもうかがわれる。オウム真理教に嵌ったのもおしなべて高学歴の若者達だった。考えるという事は知能ではなく、やはり知性なのだ。

それが虐殺系猿から進化したわたしたちの唯一の救いの道だ。たぶん。

 長くなったので次回へ続く。

やわらかな言葉と身体のレッスンー尹 雄大

言葉を交わすのは、正しいとか正しくないとかのジャッジがしたいのではなく、相手のことを知りたいからでしょう。それを通じ自身のこともよく知りたいからです。なぜ知りたいかといえば、知ることが変化をもたらし、それ自体が喜びになるからです。

去年の冬にコミニュケーションの不調和から自分自身を深く見つめざるを得ない穴、みたいなものに入ってしまった。言葉、というものが全然自分の中に入ってこなくなって文字を追うのがしんどくてあれほど好きだった本が読めなくなっていった。かろうじて物語や漫画は読めたがあまり内容は入ってこなかった。物語以外で唯一読むことが出来て、自分で自分を責めたりそれ以上自分を嫌な自分にしなかった本。ギリギリを保たさせてくれた本、とでも言いましょうか。体と心のつながりに更に興味が湧いた本でもある。一時期は読まないのに御守りのように持ち歩いていた。

ゆったりとした速度で言葉はたいへん優しいのだが(だから辛い時も読み進めることが出来た。)ゆるぎない強さ、みたいなものを感じた。それは言葉が常に著者の体感に基づいているからだと思う。

弱さ、強さとはなんだろう。

前に弱い女と強い男はいないというのはある意味当たっている、と書いた。ある意味、というのはやはり女は弱いから。歴史的にみると身体的にも立場的にも虐げられていた時期が長かったというのは事実だとおもう。

でも女は強いとも思う。その強さは踏まれても根っこは残っていてまた蘇る、まるで草花のようなしなやかな強さ。そんな強さにこの本は似ている。弱くて強い。強くてやわらかい。

言葉に依りながら決して言葉では表せない世界を語る。スーパーナチュラル。

ほとんどの言葉がからからに乾いて入ってこなかった時この本だけ沁み通るように入ってきたのはきっと著者の"いま・ここ・わたし"に対する向き合い方にある。

いま現に生きているという喜びと不思議。

そんなもしかしたら幼い頃に感じていた感覚がふんわりと戻ってくる。体に戻る、このかんじ。

知性とは概念を知ることではなく言葉以前を知ること。

わたしにとってとても大切な一冊。迷ったらいつでもここに戻ってきたい。そうして自分だけの言葉が生まれる瞬間を待つのだ。

その瞬間はいつもすぐに過ぎ去ってしまうのだけれど。

やわらかな言葉と体のレッスン

やわらかな言葉と体のレッスン

 

言葉を通じて知ろうとする真実は言葉によっては決して追いつけない何かです。追いつけない虚しさは徒労の感覚と混同しやすい。しかし、虚しいとは「何もない」ということであり、徒労感すら覚えようのない空洞です。「何もない」とはそれについて言うことすらできない充実した虚しい空間でもあるようです。賢(さか)しらの行いではうかがい知れないもの。

掴めそうで掴めない。もどかしい。

弱い女と強い男はいない。

合気道は闘わない武道と言われているけどそれは詭弁ですと。体験初日からめっちゃ闘ってしまった。なんだろう、この感じ、楽しい…と思った。受け身も楽しいし(転がるの新鮮です)相手の力を利用するっていうのも楽でいい。毎回小さな進歩がある。

先生は72歳のおじいちゃん、動きが早い。黒帯の人達、みんなシャイで繊細、そして優しい。その後居合いを教えてもらってるんだがこれがまた楽しい、というかこう、あたまの中に空白ができる、というか、時間を忘れてしまう。MY木刀買ってしまった…。

格闘技や武道って強い人達がやるんじゃない、強くありたいと切実に願う人達がやってるんだ。

だから当然ハマるのは圧倒的に男性が多い。

弱い女と強い男はいないっていうのはある意味当たっている。本当に世の女の潜在的嘘つきっぷりには辟易しちゃうのさ。自分もそうだからさ、わかるの。貴様、いつまで女子でいるつもりだ問題 by ジェーンスーだよまじで。キラキラ女子(おばさん)それに騙されている男のなんと多いことか(遠い目)ま、騙されたいのですよね、男も。女はね〜したたかだよ、したたか。生物としての戦略だと思うけど。そんなこと考えてません、愛です♡えーとそこはわかりませんって顔してるやつが最強だから。私みたいにムキになって強がってるやつはチョロいから。バレるし。あーあー正直者になってしまったよ。でもね、合気道に来てる女の人そんな人ばっかりで安心する。みんな、不器用だね…。

こんなチョロ助な私でさえも若かりし時は男ってチョロいわね〜〜、とどこかで思ってた。私の地元は女が強かった。昔からありがたい事に優しい男ばっかりに囲まれていた。そういう頭があるから女でいるだけで勝ちと思ってた。

でもさ、圧勝したからってなんなのさ?年を重ねるにつれ負けてくれる器の大きさに深く打たれるもんです。

負けたもん勝ちというのは多分本当です。いいなぁ、弱そうで本当は強い人たち。憧れる。地元の友だちはみんな今もただ波に乗ってる。武道なんてやらなくていい人たち。常に波が基準だから。SNSとかはやんないか最低限。つまんね、きりねえべって言ってた。話がある時は海いこーか、とただ海辺をあるく。で結局くだらない話をしておしまいなんだけど。シンプルだな。中高校生の時は意味もなく海に行って本を読んだり昼寝したりしてた。帰りに仲良しの先輩の家に行って手作りおやつ食べたり。なんと平和だったのだろう、なんと恵まれていたのだろう。海辺でバーベキューしてると誰かがサーフボードで腹ばいで泳いで海の大きい岩のとこに行って牡蠣をいっぱいとってくるのさ、最高にうまい、ほんとの塩味で。スナメリっていう小さいクジラも見れるんだ。今も見れるかなぁ、中々帰れないけど会いたいなぁ。サーフィン、私もね、やってみたけど全然センスなかった。でも海にただ浮かんでいるのは大好き。海水ラブ。あれがあの平和で幸せな日々が私の真ん中だったのかなぁ、そう思うと強くなれそうだな。

でもさ、強くなりたいと切実に願う人々が愛おしいさ、涙でそうなくらい。自分もね。 段々合気道のみんなと仲良くなってきた。嬉しい。 サーフボードみたいに剣を操れるように…って私何を考えてるんだろう。

波の絵、波の話

波の絵、波の話

 

 f:id:natsumomox:20170611111456j:image

f:id:natsumomox:20170611111528j:image

 f:id:natsumomox:20170611111533j:image

 海に行けない時に見る、最近は開きっぱなし。

北斎とその娘

私にとっての日本のイメージって江戸時代なんです。まぁ好きなんです。

20代の頃、山本周五郎にハマりまして。あとやっぱり北斎が好き、というのが大きい。

優れた浮世絵師の中でもやはり北斎は別格で。

赤富士やビックウェーブそれに歌舞伎役者の顔なんかが有名ですが北斎ブルーと言われるなんとも言えない青の世界や、密かに人気の高い西瓜の絵などいい画が沢山あります。
その中でもかなり好きな
「雪中虎図」Old tiger in the snow.

北斎最晩年に書き上げたと言われています。
北斎が最後の最後にたどり着いた言葉では決してあらわせない世界。北斎自身を表しているとも言われています。
画に対する純粋な情熱と諦観とそれを超えた可能性。この画をみていると不思議な浮遊感でたまらなくしあわせな気持ちになる。まるで雪なのにとてもあたたかく感じる日のように。北斎はある年齢から数年間毎日虎の画を描き続けていたのですがその理由が孫の放蕩を辞めさせる願掛けの為というなんとも可笑しいような切ない様な。その内に虎を描くこと自体に夢中になったようです。
北斎には2人の妻がいてそれぞれ一男二女がいたと言われています。
三女のお栄(画号は葛飾応為かつしかおうい。
北斎がお栄を呼ぶ時おーい、おーいと呼んでたからだそう、ちょっとひどい、です。)
北斎の才能を受け継ぎ大変に画が上手く子供の中で唯一絵師として生計を立てていました。同業の絵師のもとに嫁ぎますが夫の画の拙さを指摘し離縁され、また北斎のもとに戻り画を描いて暮らします。北斎の作品のいくつかは応為の作ではないかと言われていて(合作もあり)本人の名の作品は大変少なく現存するのは10点ほど。
その数少ない作品のうちの1つ、

構図といいタッチといい全く新しい浮世絵の世界を予感させませんか。モダン。2つの提灯それぞれに応と為ってさりげなく自分のサインを淡く浮かびあがらせるなんて、粋。
そのお栄を主人公にした杉浦日向子さんの漫画
百日紅さるすべり)お栄がまだ嫁に行く前の若かりし時のお話。もちろんこの時も北斎と暮らしています。

百日紅 (上) (ちくま文庫)

百日紅 (上) (ちくま文庫)

 
百日紅 (下) (ちくま文庫)

百日紅 (下) (ちくま文庫)

 

杉浦さんの頭の中ってものすごい広い感じがするのです。

美しい空白があって広々してる。
表現者の頭の中の広さって私にとってすごく重要で、それはこちらの想像力をどこまでも伸ばさせてくれるというか。気持ちがいいのです。一コマ、に江戸の街がひろがっていてまるでそこに入り込んで歩いている錯覚に陥る位自由に。空白の使い方がすごい、行間を読ませるというか。絵も超上手いって訳ではないんだが、なんかめっちゃかっこいいの。
お栄ってなんか北斎守護天使みたいな存在だと思う。言葉とか態度とかめっちゃぶっきらぼうなんだが。それがまたいいんだよね。それでも1番大切な部分をわかって護ってあげるというか。そういう人って必ずだれにでも存在すると思う。血縁とかは関係なくね。
"しあわせ"のこと考えてたらこの漫画の北斎とお栄のことが浮かんできた。

江戸一番の絵師と言われながら80歳を超えてなお、猫一匹も満足に描けない、と悔し泣きしていた北斎。そこはクールに真剣に慰めるお栄。自宅の炬燵の中でただ毎日描き続ける北斎。一緒に描き続けるぶっきらぼうなお栄、

芳しいな。

この人も相当江戸をかんじさせる。麗しい。


椎名林檎 - 長く短い祭 from百鬼夜行

"永遠なんて素っ気ないね、ほんのかりそめが良いね"

 

なんてニクい歌詞さ。わっしょい♡夏ですね。

合気道と居合い

合気道のあと居合いの練習をしている。

ただの木刀の素振りなのだが、これがなんだか楽しい。ただただ振り続けているのだが。ほわーというか心がすごく静かになってゆく。先生に、もーいい加減帰りなさい、筋肉痛になるから、と言われてはっとしたらいい時間だった。MY木刀を買うことを勧められる。MY木刀?探してみようかな。3000円位らしい。家でも出来る練習の仕方を教えてもらった。立て膝で。今は公園とかで木刀振ってると捕まっちゃうらしい。今日の合気道は半眼でやってみた。アドバイスも適当にきく。段をとるとか正直どうでもいいんだけど。身体を探検しているだけさ。ただ単に眠かったというのもある。木刀振ってる時のがいい。

でもなんかいい感じかも。ある程度の仕組みをわかった上で棄てるのとまっさらなままでというのでは私は一回わかっときたい方かも。

世の中にはいろんな方法で身体と向き合っている人がいる。うん、会いに行ってみよう。

本当の気持ち良さは静かで手ごたえがない…。

f:id:natsumomox:20170604221557j:image

ただいまクラリセージの花が満開中。あの精油の香りがします。とても落ち着くのです。ドライにしよう。

書くことについてー驚く力ー名越康文②

書くことは「お金の論理」へのレジスタンスー「驚く力」第8章 より 名越康文

実家はずっと商売をやっていたのでお金に対する感覚は実は普通よりあると思う。納得がいかないものには一銭も払いたくないし楽しい時間やいいと思うものには惜しみたくない。夫は金融市場に関係する仕事なのでお金と社会の関係についてよく話してくれる。日々お金の価値は膨らんだり、縮んだりしているそうだ。日本という国は清貧志向が強く皆お金についておおっぴらに語るのは少し恥ずかしいことだとお互いに思わせている。それでいてすごく気にしている。そうではなくて手段としてのお金のリテラシーを中学生位から授業で教えるべきだと。その上で自分に合った使い方が出来るといいと言う。なるほど一理あると思う。

そのようにお金について意識的な人々に囲まれているとお金って大事だよな、と思うのだが同時にいつもなにか釈然としない思いが押し寄せる。いつもお金に対する違和感はあったのだけれどそれが何なのかは明確にはわからなかった。

驚く力ーーさえない毎日から抜け出す64のヒント

驚く力ーーさえない毎日から抜け出す64のヒント

 

この一見自己啓発っぽい本によるとお金は一言で言って「よくでき過ぎた仕組み」であり、でき過ぎな故に"一般化"がおこりやすい。本来お金とは全く関係ないことにも当てはめて理解しようとしてしまう。それくらい私達の社会に根を張っているシステムだから。どなたかのブログでtalent (才能)の由来はギリシャ語の重さや貨幣の単位を表す言葉talantonからきている、故に才能とお金は同じ、使うことでめぐる、益々増える。才能を使おうとあったがこれはまさに一般化の例だろう。大昔から洗脳されている…。そんなわけない、けど自然にそう思わせてしまうのが今のシステムなのかもしれない。

ただ、お金がそういう機能をもっているからといって「お金の多寡が人生を決める」とまで考えてしまうと、僕らは人生の半分を犠牲にしてしまうことになります。なぜなら世界の半分はお金で説明できるかもしれないけど、世界のもう半分は、お金では説明できないからです。

 世界の半分、有用の用と無用の用。お金の論理では説明できないことを無理やりお金の論理に当てはめてしまうことで私達はきっと世界の半分を失ってしまう。

 このお金のシステムになぜ「書く」ことがレジスタンスになるのか。それはお金と書くことが驚くほど似ていないからだという。お金の本質は等価交換でそのことを単純に示す事実は「使ったら減る」こと。でも使っても減らないもの、使えば使うほど増えてゆくものも世の中にはたくさんあってそういうもののことをお金はうまく説明ができない。「学び」というもののことはその象徴であり、あらゆるものからラベルをはがし世界を豊かに見る力を育てる。普通に生きていると知らず知らずの内にお金の論理に埋め尽くされてしまうがこれはメディアの論理とも多分似ている。わかりやすいフレーズでわかったつもりになる。本来の意味がどんどん痩せてゆく。だからこそ私たちはお金の論理に、日々、抵抗しておく必要がある。その一番堅実な抵抗が書き続けることなのだと。人に見せても見せなくてもいい。ただ自分の中に複数いる別の自分と対話するつもりで。

世の中でこれだけ多くの人が、儲かりもしなければ頼まれもしないのにブログやツイッターで、物をかきつづっていることを僕は頼もしく思うんです。それは「使ったら減る」お金の呪縛への、無意識の内のレジスタンスではないかと思うからです。

しかし「書き方」にはコツがあって意識を縦に掘ってゆくこと。あと3歩掘り下げること。考え続けること。文章が破綻してきても気にしない。他の章、心の速度の落とし方や第二の所属をつくるなどもとても面白い。それにしても一冊の本のコストパフォーマンスのなんと優秀な事か!本ってやはりすごいのだ。しかも本が無料で読める図書館はやはり最高の善意の場所だ。

名越先生ってこういう解りやすくて面白い本もたくさん書かれているんだけど本業は精神科医だ。ホムンクルスの原案者だしどう考えても普通の精神科医ではなさそうだ。 

甲野先生との対談でこれはすごい、言っていいの?でも本当にそうかもしれない、と切なく思った名越先生のカウセリングへの考え方を引用してとりあえず今回は終わる。生きるってなんだろう、しあわせってなんだろう。どこを目指してく?考えが破綻してゆく。

要するに、「あれに当ててやる」と思って石を放る時には、必ず身体のどこかに力がはいる。だから当たらない。だけど、「ちょっとかかとの角度を変えてみて」というと「これになんの意味があるの?」という感じで、言われたほうはその言葉の意味がよく分からないんだけと、「やってみたら当たった!」みたいな。そういう人生の妙はありますね。その人の凸凹の凹をちょっと指摘してあげると、ククッと効果が上がる。ところが効果が上がって、自分が得たいと思っていた目先のものを得てしまったり、ちょっとした幸せを得てしまった人の表情の惨めさ、つまらなさというのは胸が痛むものがあります。その得たいものを得る前に苦しみ悩んでいた人のほうがよほど、芳しさがあるんですね。不遜きわまりない言い方ですけど、そこが本当に難しいところです。

けれどもほんたうのさいわいとは一体なんだろう。

書くことについてー驚く力ー名越康文①

去年の冬、なんだか久々に穴にはまったような感覚があった。自分が鉛になるような感覚があった。厚くて重い。

休みの日はなにもやる気が起きないのでスマホで文章を書いてみた。他人に見せることを前提にした文章ならばいろいろ抑制が効きそうだし、と長らく放置していたブログに戻って来た。単純になにかを自分の中から出してみたかった。しかし久しぶりに文章を書いてみるともう、てにをはから間違っとる!とか言いたいことが書けん!とか自分の語彙力の無さや文章力にかなりのストレスは感じるのだが、あ、自分はこういう風に感じていたんだとか、ここはかなり偏っとるな〜〜とかとかメタ認知っていうんですか?割と穴を客観的に見れるようになって穴を脱出するきっかけになった。それに私はすごくいい友達がいて(少ないけど)いちいち感想をくれたりのりをくれたりしてたのでそれも続ける動機になった。いつも思うんだけど本当に友達って神様がくれた贈り物だと思う。そうとしか思えない。

学生の頃作文とか小論文とかは結構褒められた記憶がある。あとものすごい昔お付き合いしていた人に手紙を書く習性があったのだけど、別れる時に、手紙だけはまたくれよな…と言われてかなり複雑な気分だった。だから全く嫌いで苦手という訳ではないんだろうけど、自分の書くものにピンとこない。でも喋る言葉はもっとピンとこないのでまだましという程度だ。だからなんだか調子が戻ってきたし、最近楽しいことがいっぱいだし、もう書くことはいいかね〜と思っていた。一冊の本、いや、その一章を読むまでは。 

書くことは「お金の論理」へのレジスタンスー「驚く力」第8章 より 名越康文

名越康文さんというお名前は前から知っていた。はじめて知ったのは「ホムンクルス」という漫画だった(殺し屋1も読んでましたがこちらも原案だったのは今知りました)原作というか監修というか。かなり興味深い内容で一時期ハマった。しかしその後マスコミで随分拝見する機会が多く勝手なイメージでタレント的な感じがしてそれ以上特に興味をもつことはなかった。

再びこの方に興味を持つようになったのはしいたけ占いという占いをされているしいたけさん。彼の占いは今や知らない人はいない位大人気なのだが、とにかく文章がなんだかいい。絶妙なやわらかさ、というかもう本当に癒やされる「普通なんだけど普通じゃない」、という上等な技を使って書く方だ。その彼が尊敬する人として名越康文先生と書いていたこと。そしてその名越先生はあの甲野先生とかなり親交が深いこと。この2つで是非ご著書を読んでみたいと図書館に行きました。

甲野先生との対談本を先に読んだのですが、甲野先生 はどういう方かと書かれた一文でさらに興味がわいてきた。

 甲野氏を一言で評するなら (そのような暴挙を赦されるのは 、さすがに私だけかも知れない )実は憤怒の人なのではないだろうか 。人であるのに 、人の外に立つ人 、と言い直してもよい 。自らが人であるにもかかわらず 、たとえばこの星 、この国の風土 、大地の側に立たざるを得ない存在 。なぜ 、彼がそのような役回りを与えられてしまったのかは分からない 。だが彼の幼いころの思い出の最たるものが 、その過剰なはにかみであり 、それが故にまともに小学校に上がれるかさえ心配だったと 、母堂が後になって述懐されるほどのものだったという事実と 、深く関係していると思う 。つまり甲野少年は人間たちの空間よりもむしろ自然の懐のほうが 、自己の存在のありようにずっとフィットしたのだろう 。しかしその感性の特質は 、大人になってもその根幹は全く変わっていない 。であるから 、彼はいつもある意味で葛藤のなかにある 。それはとりもなおさず 、自分がいつも自然と相対峙する 〝人 〟であるにもかかわらず 、納得する料簡は絶えず自然の営みの側にあるからである 。才気は往々にして宿命の中に生ずる 。この根本的な矛盾が 、甲野善紀という稀人の汲めど尽きせぬ創造性の根幹にあると私は思う 。ー

 甲野先生に2回お会いして印象、というものが自分の中にぼんやりとあってもちろん理解できないのだけど僅かに引っかかる部分、それを驚きと共に鮮やかに目の前に差し出された気がしてやられた、と思ってしまった。

憤怒の人、そうなのだ、猟師の千松さんのお話を聞いた時も、大地の再生の矢野さんにお会いした時もあるいは五十嵐大介の漫画を読んだ時も同じ引っかかりがあった。人であるのに人の外に立つ人。その激しく純粋な怒りと悲しみが。彼らはそれを見事に昇華し、現実を生きるエネルギーに変えていた。他者に広く深く影響を与える存在になった。そして誰よりも穏やかに見えた。でも、きっともとはそうなのだ。

私はそういう方達にとても惹かれる。とても。この短い紹介文の中でなんと鋭く本質を突かれたか。だからこそあれだけ甲野先生の信頼を得られているのだと思う。この対談本はびっくりするようなことが沢山さらりと書かれています。ものすごく面白い。特に私の大嫌いなスピリチュアルの引き寄せについて、甲野先生の言葉が死ぬほど頷けた。さもしい、んですよね。そういう癖というか水路ができてしまうことが、幸福かというと別にそうではないと。それとこれとは別の問題だと。自分がもやもやしていることをこうも正確に言語化されると…ああ、2日目のおでん位沁みまくる。

薄氷の踏み方 時代に塗りこめられないために

薄氷の踏み方 時代に塗りこめられないために

 

 名越先生のご著書「驚く力」に触発されたことについて書こうと思ったのに長くなってしまった。次回書こう。お金の論理へのレジスタンス、ほんとにしびれた。