あしあとをよむ

あしあとをよんでるがなんのためなのかな

欠落を埋める

村上さんの新刊を読み終わった後、またいろんな考えがぐるぐるとまとまらない。そんな時はこの本。

村上春樹河合隼雄に会いにいく」新潮文庫

対談って割と一回よんでふーんというのが多いのだけど、この本にはものすごく豊かなものが詰まっていると思う。これはまさにこのお二人の器のかなりの大きさといろんなことを見てきた目(いろんなことが見通せる眼)によるのだろう。相性というのもあるのだろう、互いに自身も知らなかった深い部分の本音を引き出しあっているという気がする不思議な対談だ。折にふれ何度も読んでいる本だがその度違う気づきがある。ページごとに村上さん、河合先生のメモのような後日談のような脚注(フットノート)がそれぞれのテーマごとに書かれていてそれがまた理解の助けになるのだ。(こういう仕事ぶりが本当に誠実さを感じる、できる限り伝えようとすること)

人間はある意味で皆病んでいる、欠落部分を抱えていることについての村上さんの脚注が今回すごく響いたのでメモ。

"「欠落を埋める」というのは説明を要すると思います。ひとつ確認しておきたいのは、欠落そのものは(あるいは病んでいるということは)人間存在にとって決してネガティブなものではないということです。欠落部分というのはあって当然です。ただし人が真剣に何かを表現しようと思うとき、「欠落はあって当然で、これでいいんだ」とは思わないものです。それをなんとか埋めていこうとする。その行為に結果的な客観性がある場合には、それは芸術になることもある。そういうことです。"(埋めても埋めても埋めきれるものではないということですが。)

それは武術家の光岡さんのツイートを先日友達が送ってくれてそれともリンクしてる。

"武術/武道をする意味は自分が他者に合わせられるよう勢いや闇雲さだけの無私無我にならないことにある。そこで等身大の自分を見出し、如何に私を消して行くは其処から考えると良い。自分を持ちつつも、他者に関心を示せ、周囲と合う丁度いい自分を常に内面に観出して行ける人は強靭である。しなやかに、穏やかに、張りと柔らかさある身体とブレても直ぐに立てなおせる心を持ち合わせることは多くのことに通じる。また、その様な身心は他のミスを見やぶるも許せる寛容さにも繋がってくる。"

ありのままでいい、という言葉に抵抗を覚えるのはきっとこの2つの文章の中にヒントがある。私自身はかなり欠落している部分がある人間だと思うのだけどそれを理由に諦めたくないのだ。

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がんばれよ!おまえもな!