あしあとをよむ

あしあとをよんでおもいだす

無用の用

私は頭の回転があまり良くない。ぼんやりしている。でも気になったことは割としつこく長く考え続けるタイプだと思う。わかったふりをしようと頑張った時期もあったが、とんちんかんな事を言ってしまうしやっぱりわからないものはわからないから考え続ける。論理的思考も抽象的思考も苦手だし記憶力もよくないからこんな風に文を残して自分の傾向?のようなものを知れればすこしはましになるかもと足掻いている最中。でも文を書くのは好きかも知れない。なんとなく言葉の組み合わせや音を想像するのが好きだ。言葉を分解して意味のない、でも楽しい音が頭の中に満ちる時は最高におもしろいのだ。それはとてもここでは書けないけど。得意なのは実際的でシンプルな作業、料理をするとか植物を育てるとか動物を飼うとか。

この間のきつねさんの第4講で無用の用という言葉がでてきてそれがずっと頭の中にある。きつねさんは話す言葉(ライブ)が魅力的な人だと思う。言葉が次々出てきてすごいなぁと思う。回転が早いタイプなんだろう。回転についてゆけず3回目でやっとなるほど自分が感動したのはこういうことかというのがわかってきた。

昔、誰かのエッセイでどこかの神話「世界を作るウサギとワニ」の話を読んだ。ウサギが世界を作ってる間ワニは寝ている。世界が半分出来たところでワニが起きて「世界が半分できたね」と言ってまた眠ってしまう。ウサギは残り半分を作りまたワニが起きてきて「世界ができたね」と言って世界が完成する、というお話。結局ウサギだけが世界を作ってるように見えるけど実は眠って夢を見ている人の存在がとても重要でそれこそが世界を成り立たせているのだ、という。眠っているワニのメタファーは物語、だ。

物語とはすなわちフィクションだ。

 『まだこの世にはないもの』を信じる人がいて初めて、それは現実になる可能性をもつ。だから悪しき物語を凌駕する善き物語を紡いでゆきたい、と村上春樹さんが仰っていたのがいまはすごくよくわかる。

20代の時いろんなことがあって自分はもうこの世にいなくてもいい存在かもしれない、と淡々と思った。きっと私がいなくても世界は回ってゆくし家族も最初は悲しむかも知れないが回ってゆくだろう、と考えた。というか辛すぎてここからはやく降りたいのだ、と考えていた。若い時は特にみんなそういう時期があるのかも知れない。

夜中に不思議な夢を見た。夢の中で私は影だった。父親の影だった。私は影ながら消えてしまおうと夢の中で思っていた。よし、消えようと決意した瞬間、父が突然どろどろとした恐ろしいものに変化してしまう、という夢。その恐ろしいものは全てを焼いてしまおうという怒りで一杯でそれが私の皮膚に伝わりびりびりと感じられた。びっくりして目が覚めたのだ。しんとした月を見上げながらその時に自分は影のようなものかも知れない、と思ったのだ。そして影は影で重要な役割を担っているのかもしれない、と。そう、まるで眠っているワニのように。だからもしかしたら私も世界に必要不可欠なピースなのかもしれないと。言葉ではなく体感として。だからその時からいろんなことがあったけど降りてしまうという考えは消えた。

第4講が伝えたいのは夢を見ているワニの存在なのかもしれない。あの詩がいつも私を泣かせるのはそういうことだったのかもしれない。いろんなつらい出来事や思い出でふと消えてしまいたいたいと思うことは誰にでもある。でもあなたが消えたらきっと誰かの影が一緒に消えてしまう。誰かの影が消えてしまったらきっと善き物語がひとつ死んでしまう。だからどうかどうか消えないでね。じわじわと毎日を過ごしているだけでいい。どんなにみっともなくても勇気がでなくてもいい。消えないでいたらきっと、きっと。あぁ、それくらいしか今はわからないけど。

でも、この4講をまともに受けると褒めるべき人も責めるべき人もいなくなる、って事だよね…。人はひとりひとりこんなに違うけど本当の意味での平等ってこと…。うーむ、とても納得できないけど前よりはわかってきた。こんなに引っかかるという事は自分にとって重要なテーマだという事。