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書くことについてー驚く力ー名越康文②

書くことは「お金の論理」へのレジスタンスー「驚く力」第8章 より 名越康文

実家はずっと商売をやっていたのでお金に対する感覚は実は普通よりあると思う。納得がいかないものには一銭も払いたくないし楽しい時間やいいと思うものには惜しみたくない。夫は金融市場に関係する仕事なのでお金と社会の関係についてよく話してくれる。日々お金の価値は膨らんだり、縮んだりしているそうだ。日本という国は清貧志向が強く皆お金についておおっぴらに語るのは少し恥ずかしいことだとお互いに思わせている。それでいてすごく気にしている。そうではなくて手段としてのお金のリテラシーを中学生位から授業で教えるべきだと。その上で自分に合った使い方が出来るといいと言う。なるほど一理あると思う。

そのようにお金について意識的な人々に囲まれているとお金って大事だよな、と思うのだが同時にいつもなにか釈然としない思いが押し寄せる。いつもお金に対する違和感はあったのだけれどそれが何なのかは明確にはわからなかった。

驚く力ーーさえない毎日から抜け出す64のヒント

驚く力ーーさえない毎日から抜け出す64のヒント

 

この一見自己啓発っぽい本によるとお金は一言で言って「よくでき過ぎた仕組み」であり、でき過ぎな故に"一般化"がおこりやすい。本来お金とは全く関係ないことにも当てはめて理解しようとしてしまう。それくらい私達の社会に根を張っているシステムだから。どなたかのブログでtalent (才能)の由来はギリシャ語の重さや貨幣の単位を表す言葉talantonからきている、故に才能とお金は同じ、使うことでめぐる、益々増える。才能を使おうとあったがこれはまさに一般化の例だろう。大昔から洗脳されている…。そんなわけない、けど自然にそう思わせてしまうのが今のシステムなのかもしれない。

ただ、お金がそういう機能をもっているからといって「お金の多寡が人生を決める」とまで考えてしまうと、僕らは人生の半分を犠牲にしてしまうことになります。なぜなら世界の半分はお金で説明できるかもしれないけど、世界のもう半分は、お金では説明できないからです。

 世界の半分、有用の用と無用の用。お金の論理では説明できないことを無理やりお金の論理に当てはめてしまうことで私達はきっと世界の半分を失ってしまう。

 このお金のシステムになぜ「書く」ことがレジスタンスになるのか。それはお金と書くことが驚くほど似ていないからだという。お金の本質は等価交換でそのことを単純に示す事実は「使ったら減る」こと。でも使っても減らないもの、使えば使うほど増えてゆくものも世の中にはたくさんあってそういうもののことをお金はうまく説明ができない。「学び」というもののことはその象徴であり、あらゆるものからラベルをはがし世界を豊かに見る力を育てる。普通に生きていると知らず知らずの内にお金の論理に埋め尽くされてしまうがこれはメディアの論理とも多分似ている。わかりやすいフレーズでわかったつもりになる。本来の意味がどんどん痩せてゆく。だからこそ私たちはお金の論理に、日々、抵抗しておく必要がある。その一番堅実な抵抗が書き続けることなのだと。人に見せても見せなくてもいい。ただ自分の中に複数いる別の自分と対話するつもりで。

世の中でこれだけ多くの人が、儲かりもしなければ頼まれもしないのにブログやツイッターで、物をかきつづっていることを僕は頼もしく思うんです。それは「使ったら減る」お金の呪縛への、無意識の内のレジスタンスではないかと思うからです。

しかし「書き方」にはコツがあって意識を縦に掘ってゆくこと。あと3歩掘り下げること。考え続けること。文章が破綻してきても気にしない。他の章、心の速度の落とし方や第二の所属をつくるなどもとても面白い。それにしても一冊の本のコストパフォーマンスのなんと優秀な事か!本ってやはりすごいのだ。しかも本が無料で読める図書館はやはり最高の善意の場所だ。

名越先生ってこういう解りやすくて面白い本もたくさん書かれているんだけど本業は精神科医だ。ホムンクルスの原案者だしどう考えても普通の精神科医ではなさそうだ。 

甲野先生との対談でこれはすごい、言っていいの?でも本当にそうかもしれない、と切なく思った名越先生のカウセリングへの考え方を引用してとりあえず今回は終わる。生きるってなんだろう、しあわせってなんだろう。どこを目指してく?考えが破綻してゆく。

要するに、「あれに当ててやる」と思って石を放る時には、必ず身体のどこかに力がはいる。だから当たらない。だけど、「ちょっとかかとの角度を変えてみて」というと「これになんの意味があるの?」という感じで、言われたほうはその言葉の意味がよく分からないんだけと、「やってみたら当たった!」みたいな。そういう人生の妙はありますね。その人の凸凹の凹をちょっと指摘してあげると、ククッと効果が上がる。ところが効果が上がって、自分が得たいと思っていた目先のものを得てしまったり、ちょっとした幸せを得てしまった人の表情の惨めさ、つまらなさというのは胸が痛むものがあります。その得たいものを得る前に苦しみ悩んでいた人のほうがよほど、芳しさがあるんですね。不遜きわまりない言い方ですけど、そこが本当に難しいところです。

けれどもほんたうのさいわいとは一体なんだろう。