あしあとをよむ

植物、物語、音楽あたりが好きです。だらだらと更新中。

やわらかな言葉と身体のレッスンー尹 雄大

言葉を交わすのは、正しいとか正しくないとかのジャッジがしたいのではなく、相手のことを知りたいからでしょう。それを通じ自身のこともよく知りたいからです。なぜ知りたいかといえば、知ることが変化をもたらし、それ自体が喜びになるからです。

去年の冬にコミニュケーションの不調和から自分自身を深く見つめざるを得ない穴、みたいなものに入ってしまった。言葉、というものが全然自分の中に入ってこなくなって文字を追うのがしんどくてあれほど好きだった本が読めなくなっていった。かろうじて物語や漫画は読めたがあまり内容は入ってこなかった。物語以外で唯一読むことが出来て、自分で自分を責めたりそれ以上自分を嫌な自分にしなかった本。ギリギリを保たさせてくれた本、とでも言いましょうか。体と心のつながりに更に興味が湧いた本でもある。一時期は読まないのに御守りのように持ち歩いていた。

ゆったりとした速度で言葉はたいへん優しいのだが(だから辛い時も読み進めることが出来た。)ゆるぎない強さ、みたいなものを感じた。それは言葉が常に著者の体感に基づいているからだと思う。

弱さ、強さとはなんだろう。

前に弱い女と強い男はいないというのはある意味当たっている、と書いた。ある意味、というのはやはり女は弱いから。歴史的にみると身体的にも立場的にも虐げられていた時期が長かったというのは事実だとおもう。

でも女は強いとも思う。その強さは踏まれても根っこは残っていてまた蘇る、まるで草花のようなしなやかな強さ。そんな強さにこの本は似ている。弱くて強い。強くてやわらかい。

言葉に依りながら決して言葉では表せない世界を語る。スーパーナチュラル。

ほとんどの言葉がからからに乾いて入ってこなかった時この本だけ沁み通るように入ってきたのはきっと著者の"いま・ここ・わたし"に対する向き合い方にある。

いま現に生きているという喜びと不思議。

そんなもしかしたら幼い頃に感じていた感覚がふんわりと戻ってくる。体に戻る、このかんじ。

知性とは概念を知ることではなく言葉以前を知ること。

わたしにとってとても大切な一冊。迷ったらいつでもここに戻ってきたい。そうして自分だけの言葉が生まれる瞬間を待つのだ。

その瞬間はいつもすぐに過ぎ去ってしまうのだけれど。

やわらかな言葉と体のレッスン

やわらかな言葉と体のレッスン

 

言葉を通じて知ろうとする真実は言葉によっては決して追いつけない何かです。追いつけない虚しさは徒労の感覚と混同しやすい。しかし、虚しいとは「何もない」ということであり、徒労感すら覚えようのない空洞です。「何もない」とはそれについて言うことすらできない充実した虚しい空間でもあるようです。賢(さか)しらの行いではうかがい知れないもの。

掴めそうで掴めない。もどかしい。