あしあとをよむ

あしあとをよんでるがなんのためなのかな

小講義B-② 考えを捨てること。

恐怖を越えて。

恐怖というとものすごいショッキングな体験を思いうかべてしまいがちだが小さな恐怖は日常に満ちている。だからそれにとらわれてしまうと心は一瞬でぼんやりとした不安でいっぱいになる。あれを買わなきゃ、あそこにいかなきゃ。そしてそこで会うちいさなちいさな意地悪が心を支配してゆく。案外そんな積み重ねは大きな恐怖よりずっと自分を蝕んでゆくのかもしれない。

 個人の寿命は短い。組織にするとそれはずっと持続されるかにみえる。そういう思いで宗教も作られたのかもしれない。ただの組織と宗教の違いはなにか。私は縛る、という事だと思う。自由の反対。だからいいようにも悪いようにも使われる。株式会社でもNPOでも思想が宗教化されている組織はたくさんある。

ただ講義では宗教自体はさほど思考に影響を与えてはなく風土、環境に影響されているという。自分で判断していると思っている事が実は違う。私とは何か。己を知る。ちょっとここはもう少し深く考えてみたいところだ。自己満足的に己を知ってもなんにもならないし。占いとかはこの類。遊びの分にはいいと思うけど過去世とか知って一体どうなるんでしょうね。

家族、一族というのは最小にして自己に与える影響は最大の組織、そこから外れるということはアイディンティティをそっくり書き換える位の勇気がいる。考えを考え抜かないと恐怖に支配されてしまう。中途半端に考えているとわかったつもりになってそこで終わってしまう。考え抜いた末に考えを捨てること。そこに美しい空白と新しい未来が存在するのかもしれない。そこがもしかしたら浄化の呪文とリンクするのかも。

ググったり、ウィキったり、今は、なんでも何々とは?が簡単に解るようになっている。
業界の彼らはそれらを「とはもの」というらしい。つまり何々「とは〜」という感じでなんでも説明しまう。
現代のメディアに「とはもの」は必須でふと見渡してみると世界は「とはもの」で満ちている。危険なのは「とは」で語りだすと難しいことをわかりやすく、ではなくただ単純化して話しているに過ぎなくなってしまうこと。
それで聞いているほうもわかったと勘違いしてしまうこと。
無駄なものを省きすぎて意味が痩せていってしまう。つまり、伝えたかった本質の豊かさはまったく届かなくなってしまう。油断していると作り手も聞き手もすぐにこういう罠に捕まってしまう。この講義だって表面だけみるとへぇぇ〜〜〜!で終わってしまう。だから何か引っかかるように作られているのかもしれない。

最後の仏教用語の無我、 縁起、解脱、慈悲 の説明は講師の解釈だ。これらをどんな小さなことでもいいからやってみる、と。どんな小さなことでも、という言葉が逆に響いた。そこが一番大切な気がする。頭の中から現実に移すこと。今回だけあえて浄化の呪文がないのも意味がある。

しかし、この講義の中でたくさんの問題提起があったように思う。考え続けたい。

知能というのはただのツールに過ぎずそれをどのように使うのかが知性。私達が虐殺系サルからの進化の存在ならば優しくしよう、善くあろうというのはむしろ「自然」には反している。それでもなお、そうしようとするそこに意義がある、と。簡単なことではないし、言葉は言葉だ。ただ書いていると本当に上滑りしてゆく。それでもなお。


情報の洪水の現代で専用の便利な道具はいらない。自分にとって応用のきく必要最低限の道具をもって旅に出る。例えばナイフやロープのような。その磨き方、使い方を知れるのがこの講義だと思う。

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本当にスピリチュアルの事を知りたいのだったらバカみたいな値段のペラペラの内容のスピリチュアルなんとかとかヒーリングなんとかに行くより本読んだり連続講義何回でも受けたほうがいいと思う。私が一番きつねさんがアグレッシブ、そして尊いと思うのはこの内容でこの値段設定なのです。もうちょっと高い方がみんなも恐縮しなくてすみそうだけど。武士だね、武士。キラキラ武士。憧れますね。アイディンティティを金で買いだした日本人。貧乏くさい小金持ち達が闊歩するこの国でその姿は輝やいてみえる。